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情報は本当に伝わる
「ウェブ社会をどう生きるか」 (岩波新書) 西垣 通 (著)

いつもながらフクロウ探検隊のフクロウさんの書評にはその本質を読み解きこれを明快に評されるところ、いつも学ばされるわけであります。これに触発され、自分なりの感想を述べてみようと思い立ち読んでみました。
フクロウ氏はその読後感として
(前略)「ウェブ礼賛か否か」といった偏狭かつ単純な二項対立の図式で、本書を読み取るべきではない。
もしウェブ界の大変化が不可避であるとするなら、それを歓迎するか否かより、主観的存在の心が如何に変容するかがより重要な問題と考えられるからだ。

と締めくくっておられます。
このご指摘はなるほどと素直に腑に落ちるものであります。しかしながら敢えて詳細な記述にこだわって読みすすめると、その表現にいささか引っかかるところが多かったと思いました。
木を見て森を見ず、と言われればまったくそのとおりになってしまったかもしれませんが、気になってしまったものはしかたがない。折角なので感じたところを偽り無くつぶやいてみます。

著者は岩波新書で二冊の本をすでに書き下ろしているとのことです。1994年刊行の「マルチメディア」と2001年刊行の「IT革命」です。これらを適宜参照しつつこの三冊目のまえがきを書き始めています。

当事の大ニュースは、画像や音声、さらに動画映像などのマルチメディア情報を処理できるパソコンの登場でした。文字や数字だけしか扱えなかったパソコン上でイメージや音楽を扱えるようになったのです。従来もっぱら理性に訴えていたITが感性の領域に進出したことが一般ユーザーにとっていかに大きな意味を持つか、その魅力と危険を「マルチメディア」で論じました。  まえがき pp

「従来もっぱら理性に訴えていたITが感性の領域に進出した」と言う表現は詳細を切り払い、インパクトのある表現に徹しようとしたためか、新聞や週刊誌の見出しのような表現と感じてしまいます。詳細は前出の著書を読めと言うことなのか、と呟きたくなってしまいました。当時のマルティメディアは単に人間が感性で受け止めることができるデータ形式を扱うようになった、程度のことではないのかと私が考えているのは誤りでしょうか。これをことさら「感性の領域に進出した」などとセンセーショナルな表現をすることはいかがなものかと思います。

世の中の動きの一例として、政府のe-Japan戦略を揚げその初期目標は達成したが、IT革命という大きな括りではその戦略は矮小であったと述べています。また当事のIT革命の鍵を握るのは「放送と通信の融合」であった述べています。これも一般ユーザーが主役となって参加していなかったので「道遠しである」とその印象を述べているのです。

この部分も本当に放送と通信の融合が鍵であったのかと疑問を呈さざるを得ません。放送はもともと一方向不特定の複数者への通信の形態を指すと考えています。そんなことではなく現実の社会での放送事業と通信事業双方の活動の実態をとらえて、それぞれは別物であると言うのであればこれらの融合と言う表現は存在しうると思います。ただし、放送事業の何と通信事業の何が融合するのかを指摘すべきであって、これも詳細は前掲の著書を読めと言うのなら、直ちにその気になることはできないと思うのです。

つぎに本編の布石と思われますが「米国からのウェブ2.0という波を手放しで礼賛するのではなく、・・・」と提起し「真の本格的なIT革命実現に向けてどういう方策をとるべきかを検討する必要があります。」としてこの新書起草の動機を述べています。

これを指して「ウェブ礼賛論」とさらにキーワード化して後に再三にわたり表現されることになりますが、そもそも誰が手放しで礼賛しているのか不明です。私が認識するところマスメディアそれも業界紙(誌)と言われるあたりが自らの商売拡大のためにセンセーショナルに紹介したり持ち上げてはいると思いますが。
一般ユーザー中心の民主平等主義の美名のもとで、実は逆に、ITを使いこなせない中高年は切り捨てられるのではないか、わずかな成功者が途方もない巨利を得るかわりに貧者は巧みに搾取され、社会的な格差がますます広がっていくのではないか、・・・  pp v まえがき

これもあまりにも論法が雑であると感じます。そもそもIT一辺倒に考えるところから始めるから可笑しな話になるのであって、ジェネレーションギャップの問題や市場競争原理主義的な活動に由来する問題などはもともと存在していたはずです。確かにITを駆使すると人間の一部の能力が拡張され、その遠因により格差が助長されたり、ITにかかわる市場での変化のスピードが速いために市場原理による勝ち負けが際立つことは否定できないと考えています。
また第一章に入り、
「バカの壁」がたちはだかっているなら、学習とか意見交換とかいった行為自体が否定されてしまうし、ついには社会そのものが成立しなくなるはずではないか、  第一章 pp12

その直後問題提起として
本書はこの矛盾を情報学的に考察していこうとするのです。

とありますが、養老氏は社会が成立しなくなるなどとは言っていないと思います。
情報がまるで小包のような実体で、スポンと自分の心のなかに入ってくるとすれば、ウェブ礼賛論は成立するような気がしてきます。  pp12

この部分が典型的であると感じますが「情報がまるで小包のような実体で、スポンと自分の心のなかに入ってくる」という前提は、誰もそんなことを考えてはいないと思うのです。対立させて自説を優位に展開する枕として、かなり乱暴にその問題点を提示しているように見えてしまうのはどうしてなのでしょうか。

まえがきと第一章を特に詳細に見てきたわけですが、どうも自分が意地悪な人間であると感じてしまうほど話題のつくりが雑であり、前提として掲げる問題点に疑問を感じてしまうのです。

「第一章 そもそも情報は伝わらない」
まず「IT革命」など既に誰も信じていない。せいぜいITのTをはずし「情報革命」とでも言うべきだと思います。たしか梅田さんもそのように述べていたような記憶が・・・
「情報を小包とみなす・・・」だから「情報は伝わらない」であるから、「機会情報中心に生じている情報学的転回」と認識され、そこで「生命情報中心の情報学的転回に反転させる」との論法であります。
もともと「生命情報中心の情報学的転回」ととらえるべきであって、わざわざ「反転」のレトリックを持ち込むまでも無い。
素直に「情報は如何にして伝わるか」として著者の幅広く奥深い洞察を披瀝して欲しかった。

繰り返しますが、著述内容の全てを否定はしません。さすがという専門家のとらえ方や考え方、あるいは学術的な考え方の発祥の歴史や参照すべき文献も大変参考になると思います。
ただ如何せん、話の組み立てと持って行きかたに納得できない部分が多すぎると感じました。よほど急いで書かれたのでしょうか、もったいない気持ちでいっぱいです。

| つぶやき | 22:24 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
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| - | 2007/08/31 5:36 PM |
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| - | 2007/08/31 10:49 PM |
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